Wonder JAPAN

いま日本が面白い。 なぜか古いものが新しい。風景の中に未知の日本が見えてくる。

第3回 カミと森羅万象 

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タマ (カミ、モノ、オニ)

 縄文期の日本列島に住まう人々にとって彼らの世界はどのようなものであったのだろうか。

 

「大昔、森羅万象がアニマ(霊魂)を持っていた時代、植物も岩石もよく言葉を話し、夜は炎のようにざわめき立ち、昼はサバエが沸くように沸騰する世界があった。存在するのは善意にみちたものたちばかりとは限らなかった。夜は蛍火のように輝く怪しいカミがいるかと思えば、昼はサバエのように悪いカミがうろついた」   「日本の神々」谷川健一

 

人々にとって森は、むせ返るような木々の喧騒と、動物たちとの対等な交流の世界であった。世界の隅々までに霊が宿り、おこされた火、その炎は饒舌に人に話しかけ、人の言葉にも霊が宿っていたのである。まさに神話的な多神教的世界であった。この時代、人々は神のことを「タマ」と言い、森羅万象すべてにタマが宿っていると思っていたらしい。

 

現代でも神社には注連縄を巻いた樹木や岩石がある。樹にも岩にも水にも火にもタマが宿り、人にもその身体の内にタマが宿っていたのだ。つまり人にとっても、動物にとっても身体はタマの乗り物なのだ。日本語はこの時代に成立している。したがって人の発する言葉にもタマが宿っていた。これをコトダマという。時代が下るうちにタマは、人にとって有益、または驚異となるタマをカミといい、害を及ぼす邪悪なタマをモノ、あるいはオニと言うようになった。

 

古い時代の人々は、「容れ物があつて、タマがよつて来る。さうして、人が出来、神が出来る、と考へたのであつた」    

                                              折口信夫「霊魂の話」

 

後世の理性を中心とした左脳的人間と比べると、この時代には、生と死、過去と未来など、現代では二元論として理解される事柄が、当時は一つのこととして理解されていたようだ。この世界は、八百万のカミに整理統合される以前の土地に根ざした多数の神々の世界でもあった。この神々は、歴史時代では「宿神(守宮神)」(シャグジ)と呼ばれ、能楽師が奉ずる神、職人たちの神として現代でも細々と生き続けているのだ。縄文の世界とは、森羅万象に満ちている見えないタマ=精霊=カミとそのエネルギーを摂り入れる文化を社会システムとした文明であったといえるかもしれない。

 

このことは現代でもほぼ無意識のうちに日本人の衣食住などの生活空間から、技芸、思想、美的感性まで隈なくゆきとどいている。それは人々のこころに潜在意識としていまも生きているカミのはたらきである。森羅万象のタマ(=カミ)は、人のこころの奥に住んでいるものが外に対象化されたものであるのかもしれない。幽霊も人形も河童も仏像もこのようにして生まれた。

 

古い時代には、食べ物としての動物の捕獲や植物の栽培は、生きるための食べ物の摂取であるが、同時に自然界のタマの摂取でもあった。人々は、自然から食べ物をいただいて生きている。そのことは同時にタマをいただいているのである。タマ(霊)=サチ(幸)と言っても言いすぎではない。よく人は美味しいものに出会った時、「幸せ」と言う。タマを身体に摂りこんだとき人は幸せになるのである。他の生き物のタマ(エネルギー)が乗り移るのだ。

 

いまも古い文化が残る沖縄地方では、現代でも女性がカミや祖霊とむすびついて家族や社会を守護する存在とされている。亡くなって常世の世界(ニライカナイ)に行った祖母の霊が、再びこの世に戻り孫娘に憑いて孫娘の人生を守り、社会を守るのだ。

 

 大自然に生きづく生命現象はタマの連鎖である。身体を持ったタマが生命体といえる。ひとりの人の一生は、タマの連鎖の一過程にすぎない。古い時代には、森羅万象に満ち溢れるタマたち、なかでもカミは、最もパワーが強大で恐ろしい存在であった。(決して徳のある人格者ではない)その祟りを怖れ、幸を得るために人びとはカミを祀った。自然から得たものはまずカミに供えなければならない。祭のはじまりだ。

 

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カミとの交流 「おもてなし」のはじまり

 

カミを「もてなす」ために「しつらい」と「まかない」が発生する。準備と接待だ。これらが現代でも私たちの基層文化を形作っている。

 

象徴的には「祭」にその一切がある。

ここに日本独特の文化モードが発生する。祭とはカミを招き、山海の馳走、歌や踊りで饗応して、招いたカミの威力に、人びとの幸を祈り願うことである。これは現代でもお客をもてなす基本モードとなっている。日本人の高いホスピタリティにもつながっている。中世に中国から伝わり日本化した茶道は、喫茶をとおして「もてなし」を芸術に高めたのだ。

 

現代の政治や企業の組織も、祭りを準備する氏子の組織形態がプロトタイプとなっている。政治を「まつりごと」といい、汚れたこころと身を清めることを「禊ぎ」と言っている。カミは穢れを嫌い、人々には常に生活環境と身を清める習慣が定着している。このことは現代の衛生観念の普及、ひいては現代日本人の平均寿命アップにまで繋がっているのかもしれない。

 

古い時代の人々にとっては、カミから幸(サチ)を分けていただいてはじめて生きることができた。したがってカミのことが一番大切である。祭の日にカミにやって来てもらうには、身と身の周りをいつも清浄に保ち、力をあわせてもてなしの準備をしなければならない。決して手抜きをしないで各世代が協力して祭りの準備を行うこと、いつもケガレを嫌い、浄めていくこと。これが日本人の生活信条となっていった。

 

日本文化は、カミが主語なのだ。「日本って何?」の答えは他にはない。日本人であれば、こころの中にある「日本というモード」(カミのはたらき)が日本人を作っていったといえる。日本人の本来的な生きがいとは、先輩たちから役割を仰せつかり、努力して役割を成し遂げ、周りから一人前だと評価されることかもしれない。

 

日本列島の自然は温暖で豊かであるとともに、地震津波、台風、洪水、火山の噴火と過酷な天変地異を繰り返す自然でもある。そこに居住する人々が、人間の力を圧倒する自然環境をカミとするのは当然のことであったといわなくてはならない。カミを招き、もてなし、幸と福を願わねば生きていけなかったのだ。

 

明治に日本にやって来たラフカディオ・ハーン小泉八雲)は、日本の景観の中に、湿気の少ないヨーロッパにはない微妙な色彩やグラデーションを見出して、それが時間とともにうつろっていく姿に感動している。これが日本人のきめ細やかなこころや、世界にも類例をみないものづくりのセンスなど生活文化全体に反映していると書いている。

 

巡る四季は、同時にうつろう自然であり、そこで生きる人々にとっては、森羅万象があってこその人生でもあったのだ。森羅万象に満ちているタマの相互作用で生じる「縁」が人々を繋ぎ人生を作ってきた。うつろな容れ物に縁が生じ、事が始まるのだ。かぐや姫が空っぽの竹の中に生まれ出るようにカミがやってくる。タマを招き入れ、発生させる構造がウツである。古い時代の人々は、

「容れ物があつて、タマがよつて来る。さうして人が出来、神が出来る、と考へたのであつた」                                              折口信夫「霊魂の話」

 

かつて日本には「物忌み」という習慣があった。気が枯れてしまって、気が元に戻る、すなわち元気になるまで、何日も家に引きこもるのだ。元気は空っぽのこころに宿るのだ。

また新しい天皇が即位する時、真床襲衾(マドコオフスマ)と呼ばれる天皇の霊をつける神事が行われている。寝具にくるまって霊がつくのを待つのである。これらの事例は、卵や繭などの容れ物の中に生命が宿り、成長し、誕生するプロセスのアナロジーなのだ。

 

ウツ(空っぽの容れ物)の中に突然、エネルギーが発生する。ウツ(空)がウツロって、ウツツ(現)となる。これが産霊(むすび)=結びである。「ヒがムス」(火=霊が産す)が「結び」の本来の意味である。カミはウツにやってくる。縁結びや結婚など「結び」のつく言葉はひろく現代人の日常にも深く浸透している。

 

また世界に類例のない短文詩である和歌は、コトバのタマ=言霊である。本来の和歌は、音声であり文字ではない。それはカミとのコミュニケーションのために使用される祝詞を起源とする。言霊のエネルギーの交換プロセスが歌会であり、日本の文学はタマの交換メディアであったのだ。

(コトホギ=祝いほめる言葉~寿言)

 

第2回 日本のはじまり 稲作と国家成立

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稲作と国家成立

 

日本列島に統一国家ができたのは3世紀、奈良盆地三輪山付近の纒向(まきむく)に成立した大和朝廷であるといわれている。

 

大和朝廷は、古代豪族の連合国家であった。時代は弥生時代末期、大陸から稲作や鉄器が入り当時の産業革命により急激に農業生産が向上し、富や土地への関心が高まったのだ。主に朝鮮半島から北九州に伝わった鉄と製鉄技術は、武器製造ばかりではなく鉄製の農機具の普及が圧倒的な農業生産力を発揮する。稲作の収穫高が増加するとともに、富が蓄積され、土地や水に対する利権を確保することが重要となった。出雲や吉備、北陸の越、尾張など当時有数の部族勢力にとって部族連合としての統一国家をまとめるために大王(天皇)が要請された。

 

日本はいつごろ始まったのだろうか。日本の国名が確立したのは、7世紀末、天武、持統天皇の時代だ。それ以前は、国名は大和であり天皇の名称も大王(おおきみ)であった。たった1300年前のことである。では日本人とは何か。現代の一般常識では北海道から沖縄までこの列島に古い時代から住んでいる人々が日本人であると思われがちだが、日本人を当時の大和の勢力範囲とすれば、西日本の居住者に限られる。すなわち関東、東北、それに南九州は日本ではなかった。したがって当時、この地域に居住する人々は日本人ではない。さらに沖縄は、10世紀ごろまで縄文時代が続いていたのである。

 

「この多様な列島諸地域の中で、最初の本格的な国家、『日本国』が確立するが、それが列島全域をおおった国家でなかったことも、案外、意識されていない。(中略)それ故、『日本は単一民族、単一国家』などというのは、まったく事実に反する『神話』といっても過言ではない」

                                        「日本とは何か」網野善彦

 

現代の常識や通念は事実ではないことが多い。日本と言う国がいつ始まったのか。日本人はどのようにして日本人になったか。天皇制の成立と推移。これを多くの日本人は知らない。歴史の多様な流れの中で獲得してきた日本人のDNA(文化遺伝子ミーム)というべきものに迫ってみたい。なお本稿では、日本という表記を漫然と使用しないで、日本列島に住む人々とその文化という意味で「日本」と表記していきたい。

 

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縄文1万年 自然と共存する文化世界

紀元3世紀に統一国家が成立する以前の日本列島はどのようなところであったのだろうか。それは、なんと1万年余にも及ぶ縄文の時代が続いていたのである。日本語もすでにその時代に成立していた。

 

一般の常識では縄文時代は原始社会のように思われがちだが、もうすでに相当の文化社会であった。したがって日本列島にやって来た人びとは、列島の征服ではなく、日本語を習得してこの列島文化に同化していったのだ。この時代には地域の部族単位で、人智が及ばない圧倒的な自然の中で狩猟、採取と農業、さらに他の地域との交易が人々の生活を支えていた。まさに森羅万象の中で海の幸、山の幸を得るために、自然の中のタマ(カミ、モノ、オニ)と共に生きていたのである。

 

縄文時代の遺跡、青森の三内丸山遺跡からは新潟のヒスイや北海道の黒曜石が出土している。さらに福井の鳥浜遺跡から船が発掘されたことなどにより、縄文時代に列島周辺の海を通じて多くに人や物が絶え間なく列島に出入りしていたことは確実であったといわなくてはならない。

 

日本列島に渡ってきた人々は、その大多数が朝鮮半島経由でやってきたと思われがちだが、北のサハリンから渡ってきた人々、中国南部やフィリピンなど南方から海を渡ってきた人々など多くの民族が、海と陸の交易を保ちながら生活していたのだ。重要なことは、海は人と人を隔てたのではなく、海は人と人を結びつける道であったのである。縄文、弥生時代を通して多くの人々がこの列島に住み着いた。そして人々は、日本語を学び列島の縄文文化と融合していった。

 

当時、中国には統一国家がすでに成立していたが、日本列島には統一国家はなかった。一般には国家成立が文明の証と思われがちであるが、縄文時代の部族社会では王に権力を集中させる国家をあえて目指してはいなかったようだ。自然、森羅万象の中にカミを見出し、その圧倒的な力を前にして自然と共存する文化を守っていたのだ。いわば自然の王国といってもいいかもしれない。族長はリーダーではあったが、権力で民衆を支配する特別な存在としての王ではなかった。人びとは、動物、植物とさえ分け隔てのない関係を保っていた。わかりやすく言えば、人間に宿っている魂(タマ)は、動物にも植物にも同様に宿り、すべての生き物たちがタマの連鎖として自然を形成していたのだ。欧米のキリスト教文化にない多神教文化が発達していた。

 

一神教的世界、欧米を中心としたキリスト教は、いわば砂漠の宗教である。これに対して日本の神々の世界は多神教的世界、いわば森の宗教である。端的な大きな相違は、一神教では人間は神に選ばれたものとして他の生物より上位に位置することに対して、多神教では神々の世界、自然界、生物界が繋がっていて人間はその一部に過ぎない点にある。キリスト教世界は、キリスト教の布教を前提に、野蛮な多神教世界を文明世界にしていくとしながら世界中を植民地化した。さらに奴隷制度を当然としていた。したがって唯一神を最高位に縦の超越的秩序を重視する一神教世界に対して、多神教世界は横の現生的秩序を重視していると言えるのだ。

 

 

第1回 日本の秘密 カミのはたらき

 

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◉なぜ、日本の街は清潔できれいなのか?

◉大震災がきても日本人は、なぜ秩序正しかったのか?

◉日本人はなぜ親切なのか?

◉なぜ日本の政治はだめなのか?

◉なぜ日本製品は優秀なのか?

◉なぜ日本のポップカルチャーは面白いか?

 

これはよく話題となる海外からの「現代の日本」への問いである。

エピローグにこれら問い掛けの本稿としての答えを用意している。世界から日本を見る時、どうも日本特有の特徴があるようだ。もし地球の上に日本がなかったら、それでも世界はやっていけるとは思えるが、味付けがどこか足らない料理のようではないだろうか。現代の地球上には、日本の「何かは」随分と広まりつつある。フランスの少女たちはセーラームーンを見て育ち、アフリカの奥地の子供たちは、メイドインジャパンのゴム草履を履いている。スペインの街では寿司屋が人気を集め、ベトナムには日本の経済援助でモダンな橋がかかっている。ある意味では既に「日本の何か」は国際化しているのである。その「何か」とはなんであろうか。できるだけ大胆な仮説を立ててそれを楽しんでいただければと考える。

 

日本文化論の中で、日本文化の特徴としてあげられるのは以下のような事柄である。

◉日本の7つの基底文化

① 和をもって尊しとなす

 成否の論理性よりも話し合い重視。稟議根回し文化

② 穢れを祓う

 塩をまく。清潔好き。禊ぎ。差別。

③ 腹と胆

 天皇、親分、渡世〜フーテンの寅さん。リーダーシップ。

④ 挨拶重視

 相互の気遣い。誉め言葉(コトホギ〜タマの交換)

⑤ 縁と結び

 何かの縁、縁結び、結婚、結びの一番、縁の重視

⑥ 遠慮

 言霊〜いいことしか言わない。不吉な言葉は不吉を呼ぶ。空気を読む文化。

⑦ 見立て

 ◎◎銀座、◎◎富士 モドキ。工夫。


以上7つの事柄の底流にはどうやら日本独特の何かのはたらきが見えてくるようだ。多くは人と人との関係に根ざし、物事を決定する価値観に基づくものが多い。日本的なやり方の特徴である。この論考は、これら見えない日本的なるものの「底辺に流れる何か」に近づいてみたい。

 

プロローグ   

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遠山郷霜月祭

南信州伊那谷の東方、南アルプスの麓に遠山郷がある。まさに秘境と言ってもよい佇まいの土地である。遠山郷では毎冬、各地区の神社で霜月祭りと呼ばれる湯立ち神楽がとり行われる。神社の境内にある神楽場で神官が大きな釜に湯を焚き、森羅万象の八百万の神、祖霊を招いて神々をもてなすのである。カミとヒトが夜を徹して魂の交歓を行う祭だ。

 

宮崎駿は、この神楽を知って名作アニメ「千と千尋の神隠し」の構想を得たと言われている。寒い冬に湯を炊いてカミや鬼、もののけを招いてご馳走を振る舞い、入浴していただきもてなす湯屋の物語。この奇想天外な着想は、アニメ作品として日本人だけではなく世界中での反響を呼ぶことになったのだ。現在の日本人にとっても珍しいこの神楽は、実は二つの点で日本らしさを物語っている。

 

一つは、この神楽がカミをもてなす「祭」であることだ。一般的な神輿が街へ繰り出す神社の祭もカミをもてなす行事である。湯を焚くことが湯立ち神楽のユニークな点だ。現代でも温泉に行きご馳走を食べることは日本人の定番の楽しみである。このようにおもてなしをすることでカミのご機嫌をうかがい、ご利益を期待しているのだ。

 

二つめは、湯が沸き立つお釜を中心に、カミやオニ、もののけ、先祖の霊が、神楽に集まった人々に声を掛けて廻ることだ。魂の交換が行われるのだ。このことを古い言葉では言祝ぎ(コトホギ)と言っている。この様子を見て、どこかで見覚えのある光景だと思った。それは、東北の被災地や、春と秋に皇居で執り行われる園遊会の席で天皇が人々に声をかける光景と同じではないか。

 

 

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 ◎瀧原宮

紀伊半島の熊野と伊勢の中ほどに元伊勢といわれる瀧原宮(伊勢神宮別宮)がある。夏の暑い盛りに訪れてみた。ほとんど参詣者はいない。森の入口にある鳥居を入るとヒヤッとした爽やかな風が吹いてきた。薄暗い参道はきれいに掃き清められており道の周りは原生林だ。鬱蒼とした巨大な杉の樹々の間を抜けて行くと右手の川筋に禊場がある。川の流れる音が心地よい。しーんとした道をさらに行くと本殿に辿り着く。時間が静止した景観にショックを受ける。なんと瀧原宮伊勢神宮内宮とまったく同じ構造ではないか。内宮のミニチュア版なのだ。年を経た白木造りの小さな本殿が並び、白と黒の玉砂利が敷き詰められた聖なる場所、精霊たちが宿る森羅万象の風景がそこにあった。

 

生前の司馬遼太郎が、ほのかなアニミズムが感じられる場所、最も日本的な原風景として言い残して逝った瀧原宮の意味がよくわかる。司馬は宗教学者山折哲雄との対談で、日本文化、とりわけ日本人の宗教感覚を世界に伝えていくことが、これからの日本人の課題としながら「ほのかなアニミズム感覚といいますか、そういうわりあいいい感じの宗教感覚を生かして世界に調和を与えられれば素晴らしい」

「日本とは何かということ」司馬遼太郎山折哲雄

と述べている。私には司馬がこの瀧原宮を思い浮かべながら話したのではないかと思えるのだ。日本人のこころの原点として 「ほのかなアニミズム感覚」を拠り所に、古い時代から現代までの日本人のこころのはたらきを探ってみたい。